2018年1月22日月曜日

西部邁のこと

父親の影響もあり、また多少は寮とか周囲の環境もあり、特に政治思想に強い関心も知識もなかったけれども、それまでの自分は薄いサヨクというか、薄っぺらいサヨクではあった。

それが変わったのは、大学2年生の冬。90年8月にイラクがクウェートに侵攻し、91年1月に湾岸戦争ぼっ発。
それまで朝生は好きでよく見ていたが、事態の進行に伴い、薄っぺらいサヨクの考えも揺らいでいった。
「アメリカのイラク攻撃はいけないと言うが、イラクに侵略されたクウェートの不公正な状態はそのままでいいっていうの?」

大学2年生の冬から、突然、貪るように本を読み始めた。特に、思想とかに強い関心を抱いたのは、間違いなく西部邁の影響だった。
大学3年生の春から、授業が急に興味が出てきて、いつも前のほうに座って授業を聞いた。大学4年生になったら、だいたい単位は取れているので普通の学生はあまり学校に行かなくなるものだが、わたしの場合は必要以上に授業を履修した。そして、卒業後まで勝手に大学に行って(当時いうところの「ニセ学生」)、勉強した。

大学のサークルの先輩に、何になりたいかという話で「(朝生に出ているような)評論家になりたい」とか言ったのが(大学生なので許してください…)、ふだん温厚な先輩のどこか癇に障ったらしく、何か議論をふっかけられたのも微妙な思い出。
いや、時に西部っぽさ、栗本慎一郎っぽい口真似をしたことは、一度や二度ではなかったか(大学生なので許してください…)。

大学卒業後は1年あまり、ピースボートに出入りしたり、ニセ学生で幾つかの大学に潜り込んだりなどプラプラして、そのなかでサンボで知り合いでもあった鈴木邦男さんのゼミナールの手伝いなんかもやった。
たしか高田馬場のシチズンプラザあたりで、鈴木さんが呼びたい人を呼んでトークをやるもので、あるとき西部さんを呼ぶというので俄然テンションが上がった。改めて、西部さんの本を読み直し、何か突っ込みは出来ないかと研究したりした。

当時ピースボートの事務所で、思想についても通じている活動家タイプの古株に、西部の本を全部読んで研究したということを言ったら、「(批判するのに)そこまで全部読む必要なんかあるの?」という反応が返ってきたことを覚えている。

細かいことは忘れたが、わたしが用意した質問というのは、伝統が大事だというのはそれが歴史の風雪を耐えてきた知恵であるからで、それを人間の思いつきのような頼りない理性なんぞで簡単に否定できるものか、というのはわかるが、一方で西部先生は、伝統の中にも悪いものはあり必ずしも全部守らなきゃいけないわけではないということも同時に言っておられているので、その伝統の中の良いもの/悪いものを腑分けするのはやっぱり人間の理性頼りではないか? みたいな内容だった。

西部さんは正面から答えず、そうしたことも今度創刊する『発言者』を読んでくれ、というような感じだった。わたしも、どこか悪いこと聞いちゃったかなという気持ちになった。Wikiを見ると、『発言者』創刊が94年4月、準備号が93年10月だから、それぐらいの時期の話。

その二次会が高田馬場の喫茶店であって、唯一覚えている光景は鈴木さんがパリ人肉事件の佐川クンを目の前に連れてきて紹介しようとしていたところ、西部さんが「いや、挨拶したくない」「知り合いたくない」と拒否したことだった。目の前にその人が居ながら、断固たる態度だった。佐川さんは何も言わずに俯いていた。

94年10月からわたしは格闘技雑誌の仕事に入って、そちらの世界から少し縁遠くなった。
また、90年代半ば過ぎると、戦後民主主義とか進歩主義とか護憲派に対する批判という意味では鋭い切り口を保っていたものの、援助交際やオウムなど複雑な事象に対しては西部さんはじめとする「保守」の言説にあまり魅力を感じなくなっていった、と今にして思う。

それで、社会学者・宮台真司の台頭である。朝生でも存在感を強めていき、わたしも応援していた。
97年7月4日放送「田原総一郎の意義あり」で、西部と宮台が対決、途中で西部が退席してしまった場面はリアルタイムで見ていたし、しばらくビデオテープに残していた。当時はすでに宮台のほうを応援していたと思う。

そして、西部さんの本も手に取ることはなくなっていった。

それから十数年が経ち。
MX「5時に夢中!」を一時期よく観ていた時、その前にやっていた「西部邁ゼミナール」をチラ見したことを除けば、ふたたび、西部さんの言説に接近したのは2016年春。
安保法制の議論が盛り上がっていた頃の2016年5月5日、BSフジ「プライムニュース」で元・法制局長官が出演し、「9条と自衛と侵略の境界線」というテーマで西部さんの話を2時間近くしっかり拝聴した。
仕事の企画に関わるテーマだったし、もちろん個人的な関心があったから。
議論は噛み合わず、じつは自分でもびっくりするほど西部さんにまったく共感しなかった。いま議会で議論されている論点とは別個のところで、得意の語源に遡っての話法、そもそも人間の本性とは……的な話にはついていけなかった。

同じころ、『教養としての戦後平和論』という本を編集中に西部さんのことも言及されているので、参考までに古本で『私の憲法論』を買い直してみたり。
一年前に、読書会でオルテガをやるので、参考までに文庫になった西部の『大衆への反逆』を買い直してみたり。
どこか期待しながら、でも、いずれも今の自分に響いてくるものはなかった。

去年夏に出た『ファシスタたらんとした者』に、「遺書」だとか最後の本のような惹句が出たので、軽く立ち読みしたら、もう思うように手で書けなくなったのだという。
ああ、自分は編集者としては、ついぞ交わること無いままだったな、という感慨を覚えた。仕方ないことだ。

かつて自分が熱心な読者で、そこから離れてしばらくしたら、急な訃報にあってうろたえるという経験は、池田晶子さんの時にもあった(池田先生の場合は、本は作れなかったが、著者と編集者としての交わりは多少あった)。
多少の負い目。
いや、最初はそういう感じも確かにあったのだが、それ以上に「自殺」という選択についての思い。
言論は虚しい、自分の人生は無駄だった。……なのか、ほんとうに?

どんどん雪が降っている。
「俺に是非を説くな 激しき雪が好き」
野村秋介も自殺だった。

思想に殉じるような人たちは、もうこれからほとんど出てこないだろう。■