2015年6月11日木曜日

「G2」最終号を読んで、もやもや。

大方、そこで述べられている意見に「反対」ではないのに、まったく「共感」できない原稿というのもある

これで休刊となる「G2」巻頭にある、「ノンフィクションを読まない24歳web編集者がノンフィクション・メディアの未来について考えてみた」という記事(リンクは一部抜粋)。

もやもやした数日を過ごしたので、久々に長いものを書いてみます。

この24歳web編集者の主張は、わかりやすいといえば、わかりやすい。
以下、この方の現状把握がわかる引用。

「ノンフィクション誌は人通りのまったくないところに構えた高級レストランのようなものである。具体的な姿勢の違いを挙げるとすると、webメディアの基本としては『読者目線』が徹底している」

「ノンフィクション・メディアの課題を整理すると大きく3つあると思う。読者が求めているコンテンツを提供できていなかった(かもしれない)こと、読者がいる場所を見つける(届ける)ことができなかったこと、そして『G2』のようにコスト面から考慮すると持続可能性が無いことだ」

「『ノンフィクション』について考える際に、『忙しい読者はそもそも長い記事を求めているのか』と問う必要はありそうだ」

しかし、この方は、ノンフィクションを「コンテンツ」というフラットな言葉で呼ぶんだなあ……。それはそれで一つの立場。
ただ、ワタシの旧知のノンフィクションライターに、もし「○○さんのコンテンツは……」とでも言おうものなら、張り倒されかねない。
そういう人もいることは知っておいたほうがいい。

先に引用した現状把握をもって、ノンフィクションの収益化のために、著者がイチ一押しするのが、「オンライン有料サロン」。

「わかりやすく表現すれば、「参加者の顔が見えるファンクラブ」といったところだろう。月々一定額(多くの場合1000~2000円)を支払えばフェイスブックの非公開グループに参加できるという仕組みだ。そのグループ参加者らでオンラインでの交流を図ったり、オフラインでの会合(オフ会)を開催したり、ネットだけでなくリアルのコミュニティを形成している」

つまりそのサロンにおいては、「コミュニケーションをするためにコンテンツを消費する」という形で、ノンフィクションは消費されるのだ。

引き続き、引用。
「著者目線ではなく、あくまでも読者目線――この視点が現在のノンフィクション・メディアには足りていないように思う」

「『コミュニケーションの設計』という、これからの編集者の大きな仕事になる領域は、ノンフィクションの可能性にもつながる大事なポイントだろう」

ここまで読んで、反感も覚えた方もいるだろう。
ただ、この24歳web編集者の、何かしら前向きな「情熱」は感じとることができる。

「必要なのは、成功事例ではなく、失敗事例であることは疑いない。ただただ手数が足りない。あとは意志と情熱の問題だけだと思うのだが」

そして、最後は、こんなアジテートで締めくくられる。
「Webの時代、スマホ時代のノンフィクションとはなにか。日々、紙雑誌の編集をしながらも、そんなことを考え抜いているノンフィクションの編集者はどれだけいるのか。誇りを持ち、プライドを捨てる。失敗から未来を見つけ、対象読者が求めているものをしっかり届ける、新しい時代に合ったノンフィクション・メディアを発明することがとにかく急務なのだ。とにかく手数が必要なのだ」

ワタシは、個人的には、こうした「仕組み」の話、マネタイズ、マーケティングの話は重要だと思っている。
それは、自分に欠けていて、もっと磨かないといけないところであるから。
なので、こういった話は、イチ編集者としては、勉強にはなります。

旧来のノンフィクション雑誌が、マーケティングの視点で駄目なことも、それはきっとそうなのだろう。

しかし、ここには「中身」の話がない。
中身の種類や質も問わず、「届け方」の話しかない。
こんなノンフィクションがよいとか素晴らしいとか、「コンテンツ」自体の話は何もしなくてよいのだろうか。

旧来の(意識が低い?)ノンフィクション雑誌の編集者が、24歳web編集者の原稿を読んでも、「……で?」と途方に暮れるのではないだろうか。
(「オンライン有料サロン」の可能性ぐらいは、調べるかもしれないが)

「Webの時代、スマホ時代のノンフィクションとはなにか。日々、紙雑誌の編集をしながらも、そんなことを考え抜いているノンフィクションの編集者はどれだけいるのか」と大上段から他人に問いかけるならば、そもそも自分は「ノンフィクション」そのものについて、どこまで問いを深く掘り下げて考えているのか。

いや、野暮な話をしているのは重々承知している。
内容の話と、お金の話、それぞれこちらが大事だと主張しても、お互いに「わかっていないね」という顔をして去っていくだけ。

どちらも大事である。
どちらも大事なのに、ここにはその両者を「つなぐ」言葉がまったくない。いや、つなぐ意志がない。
つなぐ言葉が、24歳web編集者流にいえば、「ただただ、足りない」。
それこそ、旧来のノンフィクション雑誌の人に、最も求められているはずなのに。

しかし、それも当たり前の話。
「ノンフィクションを読まない24歳web編集者」だからである。
無い物ねだりは、いけない。
自分に必要なことは、自分で考えなければならない。

とはいえ、この「つなぐ」言葉が欠如している自らの感性に、24歳web編集者がどこまで「自覚」的なのかは、ちょっと知りたいところだ。

「若いうちに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。大人になっても左翼に傾倒している者は知能が足りない」という有名な言葉を、時折思い出す。

ノンフィクションを通過せずに、大人になってしまった編集者の感性。こういう人を、ワタシは信用しない。

同じ「G2」最終号に、『井田真木子著作撰集』を刊行した里山社・清田麻衣子さんの原稿が収められている。
清田さんは、24歳web編集者の対極にある。

この編集者と井田真木子の、そうでしかありえない、そうでしか生きられないという「切実さ」。
自分の好きな本ばかりつくれるわけではないけども、ワタシもワタシなりに、作家さんと自分の「切実さ」に衝き動かされたノンフィクションを、今つくっているところです。

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