2012年5月25日金曜日

ゴングのマスカラスか、マスカラスのゴングか?

ちょっと書くタイミングを逸しましたが……
5月3日、竹内宏介さんが永眠されました。

竹内さんは「月刊ゴング」をワタシが生まれる一年前に創刊した初代編集長であり、
プロレスファンには全日本プロレス中継の解説者としても知られています。
ワタシにとっては、プラス、日本スポーツ出版社時代の上司です。

尤も、それほど密な関係だったわけではありません。
ワタシの日本スポーツ時代、主に1994年10月から2000年12月までの最初の社員時代を指しますが
(2度辞めて3度復帰した男なので、複雑なのですが)、こちとら二十代の若造、竹内さんのほうは社長。
立場が違いすぎるうえ、竹内さんの専門はプロレスで、
『ゴング格闘技』のほうは舟木さんに完全に任せているという感じでした。

ワタシにとって、竹内さんとの印象的な出来事は数少ないですが、二つあります。

昔、ワタシは中央区の柔道大会に出て初段の部で優勝、
それをゴン格の大会結果欄に自らの手で紛れ込ませたことがあるのですが
(しかも写真付き。まだ若かったので……笑)、
竹内さんから思いがけず「社長賞」をいただきました。
「金一封」もいただいたのです。
直接手渡されたのではなく、上司の舟木さん経由だったと思います。
編集者として売れる雑誌をつくったとかじゃなく、完全なる社外活動。
しかも、柔道大会優勝という謎の理由……(笑)。
後日、批判も人伝えに聞きましたが、とにかく社員のそういう面まで目を配り、評価される方でした。
これは嬉しくて、忘れないように何か形に残そうと、ゴルチェのサングラスを購入したのを覚えています。

もう一つ。
ワタシが初めて自分の企画を通し「編集長」として携わったムックが『修斗読本』でした。
台割・構成も自分で考え、原稿も7、8割自分で書いた気がします。
もちろん二十代につくったものなので、いまから見れば編集の甘さが端々見えて仕方ないですが……、
当時はそれまで存在しなかった修斗オンリーのムック本をつくりあげたという達成感がありました。

これは割と光景として鮮明に覚えています。
ある日、本社と編集部の間の道で竹内さんに会い、「あれはいいね!」と声をかけられたのです。
「ありがとうございます! いや、マニアックで……」「いや、よかったよ!」というようなやり取りがありました。
竹内さんはプロレス畑の方で、当時ブームが始まりつつあった修斗のことは分からなかったはずですが、
ご自身がよく知らない分野でも、それが本としてよいものかどうかを判断された。
つくり手の偏愛ぶり、ノリノリ感も伝わったのかもしれません。
(デザイナーの安西さんも元修斗コミッションだったりしますし)
ともかく、この大編集者からの褒め言葉が、若造にとって嬉しくないはずがありません。
だって、ワタシ今でも忘れられないのですから。

ついでにいうと、桜庭vsホイラー戦でグレイシー越えにファンが狂喜乱舞するなか、
ゴン格(というかワタシ)は「桜庭のアームロックは極まっていなかった」という、
今からするとかなり空気読まない論陣を張り(笑)、
柏崎先生の腕がらみ解説まで引っ張り出して特集を構成しました。
容易に反論できないだけの、かなり丁寧な記事をつくったつもりです。
確かこの記事も、竹内さんに「よかったよ!」と褒められたのです。
ただ、そのときの光景が思い出せないのですが……、なので記憶違いの可能性も皆無ではないものの、
確かこれも竹内さんからだったと思います。

その後、日本スポーツもいろいろあって、経営者が代わったり、竹内さん自身病に倒れたり、
終いには某社長逮捕で会社自体が消える運命に……。

ただ、竹内さんというと、白山のあの道で「よかったよ!」と声をかけられた、
あの古い光景がワタシにとっていちばん思い出される竹内さんです。

とかく自意識過剰で臆病、人一倍他人の目を窺って生きる性質なのに、
やりたいことは空気も読まず突っ走らずにはいられないこのゴン格の若造編集者に対し、
ちょっぴり勇気と自信を与えてくれた大編集者……、
ワタシにとって竹内さんはそういう人だったと思います。

今更ながらのお礼を申し上げると共に、ご冥福をお祈りいたします。