2012年11月24日土曜日

キャッチよ永遠に

キャッチとは、客引きのこと。
外を歩いている人に声をかけ、値段交渉をして、自分の店に連れてくること……をやっていました。
場所は、歌舞伎町のコマ劇場(当時)前。
店は、T会館のディスコ「G」(以下イニシャルです)。
時は、バブル時代末期、1989年8月~1991年2月ぐらい(大学1年夏~大学2年冬)。
キャッチとしては、長いほうかと思われ。きつくて、すぐ辞める人も珍しくないので。
このブログだと、「柔術、どれぐらいやってるんですか?」8,9あたりの時期にあたる。


○T会館の基本情報

・3F「Z」、4F「G」、6F「C」、7F「g」が入っているディスコ・ビル。

・Gがユーロビート中心で客層が一番若い(中高生中心)。Gもユーロ中心だが、Gよりは微妙に年齢層が高め。Zはブラック中心。Cもブラック中心だが、微妙に年齢層高め。

・当時はブラックが流行はじめ。ユーロはちょっと古い感じ。Gは一番ダサい存在、店のグレード的にも一番低い。店のグレード的には、G
・どの店にも、一人は「なぜこいつが黒服なの?」というルックスの人間がいた(Gはワタシ)。しかし、案外とそういう人間も客引きでは売上アベレージを維持し、比較的長く続くタイプが多かったように思える。基本、それまで女性に縁が多いタイプではなかったから?

・意外に?武闘派多し。極真経験者が何人かいた。

・一日でも入店が早いほうが「先輩」。年齢よりも、先輩か後輩かの上限関係。ただし、そのプレゼンスは先輩でも時折脅かされる。私もつけ上がってきた後輩と、喧嘩寸前になった記憶有り(先輩が止めて収まり、とりあえず仲直りしたが、そいつは少しして辞めた)。

・店を辞めるときは、基本「バックレ」。普通に辞めさせてくれなかったと思う。辞めた後に店に遊びに来る奴、あるいは堂々とキャッチの前を歩く奴は、ボコボコにされたと思う(あるいはそういうものだと、こちら側が思っていただけかも)。

・黒服は店の物もあるが、基本ダサいので自前で用意が普通。シャツ、靴も自前。

・ビルの入り口に、大きなスピーカー置いて宣伝テープを流す。「T会館、ディスコビルディング~、3階Z、4階G……」。偉そうなロカビリーっぽいオジサンがテープ代わりにマイクを握って直接喋ることも。嫌な奴だった。マイク持っての宣伝は、すごくダサいと思った。パチンコじゃあるまいし。

・書きながら気づいたが、昔はよく夢にあの頃のことが出てきた。辞めたけど店に戻ろうとしたりとか……。ある意味、トラウマだったのだと今さら気づく。


○ディスコGの基本情報

・前身は一世を風靡した「カンタベリーハウス ギリシャ館」。

・ユーロビート中心で、常連は「パラパラ」を踊る。

・常連は「いい子」が多かった。もちろん仲間以外に見せる違う顔もあるとわかるが、話していて、基本「いい子」。親とうまくいかなかったり、学校行ってなかったり、寂しい子が多かったと思う。

・営業時間は平日16~24時まで、金曜・土曜は16時~朝5時までのオールナイト。他の3店舗は平日も週末も17時から朝5時までだったと思う。

・フリードリンク・フリーフードのシステム。カクテルは超いい加減につくっていた。たまにちゃんとした大人が来て、「これが○○?」という顔をされる時も。レシピは一応あったような、なかったような。

・受付1人、中(バーカウンター&ホール)1、2人、残りはキャッチというパターンが平日は多かったと思う。「中のサービスが落ちてもいいから、とにかく外から人をかき込め」というスタイル。週末など人がいっぱい入ったときは、中が回らないので、ホールを増やしたり。


○キャッチの基本情報

・入場料の定価はないに等しい(少ない例だが外でキャッチにつかまらず、フリーで入ってきたお客さんの場合は男3,500円、女3,000円ぐらい)。

・常連は割引のメンバーズカードを持っている(一回行けばもらえた。男2,000円、女1,000円)。

・外では「500円引き」のカードを配る。基本は、一般人に向けて。メンバーズ価格からは割り引かない。しかし、一般人は定価を知らないし、こちらの値踏み次第。高く取れそうな大人の集団(結婚式の二次会とか)だと、「500円」引いて4000円、ということも。

・いくら客が引けないからといって、黙っていても入る常連をつかまえて上に案内して数字に加えることは、意味がないので怒られる。しかし、こちらも数字のため、まだあまり顔が割れていない常連は連れて行ったりする。

・声掛けは「ディスコいかがすか」「君かわいいから特別に安くしてあげるよ」とか。そのあとは相手の反応次第で。

・「君かわいいから…」はもちろん心無く言える。こんなので喜んでいたりすると、逆にこっちが意外。

・私の1年半?はかなり長いほう。売り上げに対する上からのプレッシャーで、長く続きにくい。私も、最初は週4ぐらいで入っていたが、後半はきつくて週2(水・土)ぐらいだった。(水曜はナツメロの日で常連が来る日、土曜は週末でシフト外せないので)

・集合時間(7時・9時・12時・3時)の点呼で全店舗のキャッチが集まり、その時点の売り上げを各自発表させられる。冬は、みんなに缶コーヒーをくれる。若いのが買いに行かされる。

・点呼では、売り上げが悪いと怒られる。たまに手も出る。→社会学者さんに「それ傷害罪じゃないですか」と真っ当な突込みをうける。もちろん当時のワタシ含め周囲にそんな意識はない。

・点呼での売り上げは自己申告なので(例、「1万1千円です」…2000円×4人、1500円×2人)、誤魔化すやつもいる。周りも気づき、「こいつ誤魔化したな」という目で見る。とにかく上の目があるので、売り上げが芳しくない時のプレッシャーの掛けられ方は、半端じゃない。女の子でオイシイ思いをすることを差し引いても、長く続きにくい。

・当時は「花粉症」という言葉がなかったが、春先はいつも目や鼻が症状に悩まされた。そんな時期にマスクもせず、週末なんかは夕方から深夜まで必死に歩き回っていたのだから、今考えると恐ろしい…。


○やくざ・警察官との関係

・T会館のディスコが、「T友愛」という暴力団がやっていてT友愛が山口組系である、という程度の認識は皆あったと思う。

・キャッチと暴力団の直接の交流はほぼ無し。お客としても、どこまでが関係者か、ただの不良かは厳密に判別できないが、基本的な認識としてお客としてあまり入っていなかったのでは。店側としては、裏でいくら繋がりがあったとしても、そういう客層を増やしたら一般客が来ないという当然の認識はあったはず。

・中国人は…正直、ほとんど意識しなかった。当時は隣の大久保も、あんなコリアンタウンにはなっていなかったし。

・基本的に、店と警察は「デキていた」と思う。

・キャッチは「違法行為」という認識はあり、警察官を見たら客引きを「やめる」「退け」という指示はあった。具体的には、警察官の存在に気づいたキャッチが、後ろのほうに「歩いて」いき、「警察、警察」と皆に教えて、客引き行為を中断させる。割引カードは隠す。

・ただし、新入りのキャッチが警官を見て走って逃げたような時、上の人間(4店の統括マネジャー)が点呼の際怒ったことも。「走って逃げるから、こちらも追いかけなけりゃいけなくなる」と警察官の立場から教えてくれたことがあったと記憶。

・もちろん警察が客引き行為に気づかないはずがないから、これは出来レースである。

・風営法関係の記憶ははっきりせず。


○オカマの立ちんぼ

・二人常連がいた。

・小森のおばちゃま似(以下K)、デッドオアアライブのボーカル似(以下D)。

・どちらも中高年と思われる。酔っ払い相手を専門としているように見えた(酔っ払いでないと一般人の性的対象には…)。

・Dのほうは背が高く(185-190cm? ヒールのせいかも)、からかってくるサラリーマンとよく喧嘩していた。いつぞや逃げるサラリーマンを追いかけ、後ろから背中に跳び蹴りを食らわせた場面を見たことがある。また、同じように追いかけ、からかわれたまま逃げ切られてしまい、激しく憤る姿も見たことがある。

・Dは激情型。よく一人でぶつくさ文句を言っていた。

・Kのほうは、指を一本立て、「1万円でいいから!」と言っていた場面を見たことがある。恐らくDも相場はそれぐらいではないかと推測される。

・ほとんどキャッチとは交流はなかったと思う。私は一度だけDと会話。客からエルメスのスカーフをもらったと自慢していた。

・彼らはいつまでストリートにいたのか、気になる。


○その他ストリート

・新聞配達の「新宿タイガー」はよく見た。

・テレクラのリンリンハウス前までが、T会館キャッチの南の縄張り。テープから流れる「ニッポン一安い!」「1時間800円!」の連呼は、未だに脳裏に。

・縄張りの範囲、東はT会館のビルが切れるところまで。範囲ははっきりしていたので、客と話しながら歩いてそこから出てしまったら、諦める。

・コマ劇場があった頃。公演が終わってお客さんが吐き出される時間帯は、中高年で路上が埋め尽くされるので、その時間帯は仕事にならず。

・コマ劇場前で、深夜に北島三郎を見たことがある。取り巻きと一緒だったが、本当に小さかった。

・「VIP」という店でボッたくられた、というサラリーマンによく会った。当時その界隈で有名だった模様。


以上、備忘録の一部です。




2012年11月13日火曜日

キャッチとは

キャッチとは何か。

プロレス・格闘技ファンなら、
Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を連想するはず。

「キャッチ・レスリング」の別名を挙げ、
カール・ゴッチやビル・ロビンソンの名前を出して説明を始める人もいるかもしれない。

しかし、その説明は、間違っている可能性が高い。
実は、Catch As Catch Canは関節を取り合うサブミッション・レスリングなどではなく、
単にフリースタイル・レスリングの古い言い方に過ぎないからだ。

上半身しか掴めないグレコローマン・レスリングに対して、
「掴めるところを掴む」「掴めるように掴む」という意味の、
フリースタイル・レスリングを指す、古い英語である。

……というのは、別にワタシが研究し考えたことではなく、
翻訳blogさん
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/
のおかげで、近年日本でもその筋では広まった知見であり、
ワタシ自身もそれに同意するものである。

           *

さて、このフリースタイル・レスリングの「キャッチ」とは全く関係なく、
ワタシは自分自身が若い頃に歌舞伎町でやっていた「キャッチ」について、書いてみようと思う。
まあ、客引きだって、相手の関心の「掴めるところを掴む」「掴めるように掴む」のは同じだし、
いわば「フリースタイル」には違いない!

というのも、最近、ある学者さんの聞き取り調査に協力し、
バブル時代の「キャッチ」について、自分の体験談を話したのがきっかけ。
インタビュー前に埋もれた記憶をできるだけ引き出そうと(20年以上前!)
当時のことを箇条書きにしてみた。

聞き取り自体は、その学者さんのニーズと微妙にずれた感じだったのだが、
それはともかく、せっかくのメモを私的な備忘録として残しておこうと思ったのだ。
(あくまで表に出せるというか、出したい範囲で)

続きは、また気が乗ったときに。

2012年5月25日金曜日

ゴングのマスカラスか、マスカラスのゴングか?

ちょっと書くタイミングを逸しましたが……
5月3日、竹内宏介さんが永眠されました。

竹内さんは「月刊ゴング」をワタシが生まれる一年前に創刊した初代編集長であり、
プロレスファンには全日本プロレス中継の解説者としても知られています。
ワタシにとっては、プラス、日本スポーツ出版社時代の上司です。

尤も、それほど密な関係だったわけではありません。
ワタシの日本スポーツ時代、主に1994年10月から2000年12月までの最初の社員時代を指しますが
(2度辞めて3度復帰した男なので、複雑なのですが)、こちとら二十代の若造、竹内さんのほうは社長。
立場が違いすぎるうえ、竹内さんの専門はプロレスで、
『ゴング格闘技』のほうは舟木さんに完全に任せているという感じでした。

ワタシにとって、竹内さんとの印象的な出来事は数少ないですが、二つあります。

昔、ワタシは中央区の柔道大会に出て初段の部で優勝、
それをゴン格の大会結果欄に自らの手で紛れ込ませたことがあるのですが
(しかも写真付き。まだ若かったので……笑)、
竹内さんから思いがけず「社長賞」をいただきました。
「金一封」もいただいたのです。
直接手渡されたのではなく、上司の舟木さん経由だったと思います。
編集者として売れる雑誌をつくったとかじゃなく、完全なる社外活動。
しかも、柔道大会優勝という謎の理由……(笑)。
後日、批判も人伝えに聞きましたが、とにかく社員のそういう面まで目を配り、評価される方でした。
これは嬉しくて、忘れないように何か形に残そうと、ゴルチェのサングラスを購入したのを覚えています。

もう一つ。
ワタシが初めて自分の企画を通し「編集長」として携わったムックが『修斗読本』でした。
台割・構成も自分で考え、原稿も7、8割自分で書いた気がします。
もちろん二十代につくったものなので、いまから見れば編集の甘さが端々見えて仕方ないですが……、
当時はそれまで存在しなかった修斗オンリーのムック本をつくりあげたという達成感がありました。

これは割と光景として鮮明に覚えています。
ある日、本社と編集部の間の道で竹内さんに会い、「あれはいいね!」と声をかけられたのです。
「ありがとうございます! いや、マニアックで……」「いや、よかったよ!」というようなやり取りがありました。
竹内さんはプロレス畑の方で、当時ブームが始まりつつあった修斗のことは分からなかったはずですが、
ご自身がよく知らない分野でも、それが本としてよいものかどうかを判断された。
つくり手の偏愛ぶり、ノリノリ感も伝わったのかもしれません。
(デザイナーの安西さんも元修斗コミッションだったりしますし)
ともかく、この大編集者からの褒め言葉が、若造にとって嬉しくないはずがありません。
だって、ワタシ今でも忘れられないのですから。

ついでにいうと、桜庭vsホイラー戦でグレイシー越えにファンが狂喜乱舞するなか、
ゴン格(というかワタシ)は「桜庭のアームロックは極まっていなかった」という、
今からするとかなり空気読まない論陣を張り(笑)、
柏崎先生の腕がらみ解説まで引っ張り出して特集を構成しました。
容易に反論できないだけの、かなり丁寧な記事をつくったつもりです。
確かこの記事も、竹内さんに「よかったよ!」と褒められたのです。
ただ、そのときの光景が思い出せないのですが……、なので記憶違いの可能性も皆無ではないものの、
確かこれも竹内さんからだったと思います。

その後、日本スポーツもいろいろあって、経営者が代わったり、竹内さん自身病に倒れたり、
終いには某社長逮捕で会社自体が消える運命に……。

ただ、竹内さんというと、白山のあの道で「よかったよ!」と声をかけられた、
あの古い光景がワタシにとっていちばん思い出される竹内さんです。

とかく自意識過剰で臆病、人一倍他人の目を窺って生きる性質なのに、
やりたいことは空気も読まず突っ走らずにはいられないこのゴン格の若造編集者に対し、
ちょっぴり勇気と自信を与えてくれた大編集者……、
ワタシにとって竹内さんはそういう人だったと思います。

今更ながらのお礼を申し上げると共に、ご冥福をお祈りいたします。