2010年10月11日月曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」8

ワタシの大学生活で待ち受けていたものは……、
“怠惰”だったかもしれません(笑)。

入学と同時に法政大学の寮に入ると、
地方から集まって来た新入生たちとどんちゃん騒ぎの日々。
毎日が修学旅行のように楽しく、
週末は常に合コンの予定で埋まっていました。

ご覧のように、これまでただのプロレスオタク、格闘技オタクだった自分も
「大学デビュー」で急にはじけてしまったわけですわ。

それで、夏からは水商売も始めて、
大学時代はいろいろな水商売を渡り歩くことになるわけですが、
ここは省略。

その中で、ワタシは格闘技的にはどのように過ごしていたのか。

前回書いたように、浪人生のときの全日本決勝で敗れた自分は、
「大学に入ってレスリング部と柔道部に入る!」
なんて一人雪辱に燃えていたわけですが、
結局、とりあえず入ったのは「柔道同好会」。

他にも幾つかサークルに入っていた自分にとっては、
「同好会」ぐらいがちょうど良かったのでしょう。
しかし、それも大学1年の春合宿に行った後、
夏合宿を迎える前に足が遠のきました……。

(ちなみに、大学で最後まで続けたサークルは、
T女子大と合同の「ラケットボール」のサークル。
格闘技ファン的には、エンセン、イーゲン兄弟がやっていたことで
名前は聞いたことがある人もいるかもしれません。
ワタシは、修斗デビューの遙か前から井上兄弟のことは
ラケットボールのほうで知ってました)

サンボの練習のほうは、やはり頻度は少なくなっていましたが、
大学入学後も一応は通っていたと思います。

※以下、加筆修正しました。

1989年9月、ワタシが大学1年のときに、当時のソ連サンボ代表が来日しました。
サンボの日本代表vsソ連代表というイベントが
代々木第二で行なわれたのです。

そういえば当時はベースボールマガジンもサンボに力を入れていて、
「格闘技通信」にサンボをよく取りあげていました。
同年3月には同じ代々木第二でベーマガ主催「サンボフォーラム」も開かれていて、
前田日明さんもソ連のサンビストと交流したりしていて。
もちろん、ワタシも会場に駆けつけています。
十字を取る体勢に入りながらアキレスを取る技とか、
前田さんがすごく感心していたのは覚えてます。
当時は第二次UWFの時代ですね。
(ワタシは第一次UWFのときは後楽園に通い詰めたクチですが)

話をもどすと、9月の代々木第二での日本代表vsソ連代表の前日ぐらいに、スポーツ会館でも、
スポ館代表vsソ連代表が行なわれました。
ワタシもスポ館代表として出場しています。

それというのも、全日本出場枠を巡る57kg級の
スポ館内予選で勝っていたから。
このときは“マイケル”I君も含めて三つ巴戦をやりましたね。

しかし、今でも予選で覚えているのは、試合内容ではなく減量のきつさ。
その頃は減量のやり方をちゃんと知識として持っていなかったので、
その三つ巴戦のときは本当にきつかった。
サウナで水を抜いて体重を落として、計量後にすぐカツ丼を食べに行ったりして
(もちろん胃が受け付けない)、その1、2時間後に試合したときは、
足がフラフラで地に着かない感じのまま戦いました……。
減量でサウナというのは最悪だと、身をもって知りましたね。

そして迎えたスポ館代表vsソ連代表の対抗戦。
このときの試合映像はまだ持っているものの、まあ実にワタシの攻めは余裕で受け流されています(笑)。
当時の得意技だった袖釣り込みで1Pは奪ったものの、普通にポイント差で負けました。
その唯一の投げポイントも、受けてくれた感が否めないものでしたし。

日本代表との本番を控えたロシア人に余裕で受け流された私は軽くショックを受け、
当時の水商売のバイト先に「ロシア人に頭から投げ落とされて……」とか言って
嘘の理由で休もうとしたところ、怖い怖いバイトの先輩に怒られて出勤した……、
そんな下らない出来事こそ、20年経っても人生覚えているものです(笑)。

……とまあ、ここまで書いてみて、文体が前回までと違うことに気づきましたが、
そのときの気分で書いているので、あまり気にしないでください!

で、その秋、またサンボ全日本選手権が訪れます。

頑張って本来の57kg級に体重を落とし、年齢も上がったので
ジュニアからシニアの部になって臨んだわけですが……。

この全日本で、ある「事件」が試合前に起きます。

会場で、私はスポ館の後輩を見つけました。
坊主頭のF村(後に失踪・行方不明)が座っていたので、
後ろから「オイ!」と肩を叩いたところ……。

つづく。